王 祇 祭
(2010)
その3
このページでは、
2月1日の、下座当屋の様子をご紹介。
…
筆者にとって、初めての下座当屋。
2010年は、上座・下座共に当屋として公民館を使用した。
下座の公民館に入るのも初めて。
上座では、王祇様は舞台から離れた、
見所の一番奥に横にして吊るされ、当屋じいさん達は
その下を占めていらっしゃる。
下座では、王祇様は舞台の上で、
いわゆる目付柱に立て掛けられていた。
当屋じいさんと王祇守・提灯持ちは、
その王祇様のすぐ前に。

舞台が拭き清められる。
写真左端に見えるのが王祇様。

大きな一貫蝋燭に火がともされ、
当屋じいさんと王祇守・提灯持ちが、
王祇様に拝礼。
そして、大地踏が始まる。
![]() |
![]() |
|
| 当屋での大地踏は、小林凛太朗くん。 隣で優しく微笑むのは、上野繁美氏。 (写真下がうっすら白くぼやけているが、 これは筆者の前に座っていらした御方の御髪である。) …小さな凛太朗くんだが、あっという間に 難しい大地踏の詞章を憶えてしまったそうだ。 |
![]() |
![]() |
|
| 大地踏に続き、式三番。 右が千歳の小林博氏、上が翁の上野由部太夫。 例大祭や荘内神社で式三番を行う場合、 上座も下座も翁には、神々しい蜀江狩衣を用いるが、 王祇祭での下座の翁(当屋のみ)は、上の写真の通り、 白い装束を用いて、清浄な雰囲気。 |
![]() |
そしてこちらが 三番叟の清和政俊氏。 黒い翁の面を かけておられるが、 面の下の素顔は、 とてもお若い。 当屋と神社での 二度の三番叟の他、 今回は『鐘巻』の ワキツレも。 |
| 式三番に続いて、脇能『高砂』。 下座では、当屋さんがご夫婦共に健在の場合、 脇能は『高砂』を演じるそうだ。 筆者にとって、今回が6度目の王祇祭だが、 ほぼ毎回、脇能として『高砂』を見ているように思う。 おめでたいことである。 |
![]() |
![]() |
|
| (↑)前シテの木守の老人を演じる蛸井栄一氏と、 ツレの木守の姥を演じる斎藤平馬くん。 可愛い姥である。 2005年、筆者が初めて王祇祭で見た大地踏が、 この平馬くんの大地踏だった。大きくなったなぁ… (←)後シテの住吉明神を演じる上野司観氏。 |
![]() |
![]() |
|
| 脇能の最中に、「暁の使い」と呼ばれるお使いが、 上座に向かう。右の写真は、そのお使いが、これから 上座に向かう旨を当屋爺さん達に告げに来た時。(→) 上の写真は、脇能の後、中入りの様子。(↑) このとき、お客さんたちにも当屋豆腐が配られた。 |

![]() |
![]() |
|
| 唯一どうにか見られそうな写真が、 (←)こちらの、梶原景時を演じる平親善薫氏。 頼朝は紀頼に謀反の疑いを持ち、景時は範頼の討伐に登場、 範頼は自害する、という過酷なストーリー。 |
| 範頼は頼朝にとって異母弟なのだが、権力を握った者は 猜疑心の塊となるのが世の常らしい。弟といえども信用できない。 (…といっても、範頼の最期にはいくつか説があるようだ。) |
![]() |
![]() |
|
| 右は、『範頼』の笛を担当されていた小林義一氏。 上は、狂言『瓜盗人』。盗人(釼持忍氏)が、 案山子に扮して待ち伏せしていた畑主(小林貢氏)に やりこめられるシーン。 |
![]() |
![]() |
|
| 次は、これもまた楽しみにしていた『杜若』。 あとで伺った話によれば、 三番目には『三輪』が予定されていたそうだが、 当屋さんの奥方のご希望で『杜若』に変更となったという。 (←)後シテの杜若の精は清和勉氏。美しい。 (↑)ワキの旅の僧は勉氏のご子息、幸輔氏。 |
| …そして『鐘巻』。 恐らく今回下座当屋での観能を希望した人々の多くは、 この曲を特別に楽しみにしていたに違いない。 『道成寺』の原曲とされる曲で、五流では廃絶となっている。 筆者もドキドキワクワク。 撮影も集中し直したいと思い、固まってしまった 膝・腰・首伸ばしと御不浄行きを兼ねて、 少し外の空気を吸いに出た。 そのため狂言「茶壷』を見逃してしまったのが残念…。 この頃には、少し人の移動があったおかげで 筆者もかなり前に出て見る&撮影することができた。 目の前に蝋燭が立っていたが、それも一興。 |

![]() |
![]() |
|
| (↑)鐘の供養を拝ませてほしいと、現れた白拍子。 女人禁制と断られるが、 舞を見せることと引き換えに、参拝を許される。 (→)緊迫感あふれる乱拍子。右の写真は上半身を 撮ったものだが、足使いが興味深い。 動画でお伝えできないのが残念! |
![]() |
![]() |
|
| (←)素晴らしいタイミングの、見事な鐘入り。 (↑)蛇体となって鐘の中から現れた女の怨霊を 祈り伏せようとする僧たち。 …最終的には、祈り伏せられるものの、 幼心に植えつけられた思い込みとその執念の激しさには 畏怖の念すら感じてしまう。 |
作成日:2010年2月26-27日